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2016

『この世界の片隅に』(その2:ささやかな苦言)

トガジンです。

今回は最初に謝っておきます。
これを読んで不快に思われる方がいらっしゃいましたら本当にごめんなさい。
ネタバレも多々含まれていますので、映画を未見の方はお読みにならないことをお薦めします。

この世界の片隅に
(劇場:コロナワールド)
この世界の片隅に0

この作品が今年出会った最良の映画であることに微塵も疑いは無いのですが、今回はあえて苦言を呈します。
原作未読の私が、この映画作品のわずかな描写不足によっておかしな邪推をしてしまったというお話です。

その内容も、若い主人公夫婦の”性”に関する事柄が中心だったりします。
原作を読んでいれば一目瞭然という事柄かも知れませんが、あくまで映画『この世界の片隅に』の構造上の問題点として書かせていただきます。

映画化にあたっては、尺の関係や大人の事情によってカットされた場面やエピソードが多数あったものと思います。
その削られてしまった場面のカケラが映像の中に残っていて、それらは想像力を広げてくれるのと同時に物語をあらぬ方向へ邪推させてしまう要因にもなっています。
例えば、意味ありげに画面に登場しながらもその由来が劇中で語られることが無かった「口紅」や「表紙が破れたノート」などが挙げられます。
昨日も述べたように1カット1カットにとてつもない情報量が埋め込まれた作品ですから、鑑賞が2度目3度目となるとそういった細部のアイテムにも何か意味があるに違いないと余計に勘ぐってしまうのです。


【戦災孤児】

私は、ラストの戦災孤児を引き取るシーンに何か妙に違和感を感じていました。
すずも周作も、何故あんなにすんなりとあの子を受け入れて連れて帰ることを決めたのかが理解出来なかったのです。
まだまだ若い夫婦です。
「これから先、二人の間に実の子供が出来たらどうするんだろ」と思ってしまった私はやはり「心が貧しい奴」なのでしょうか。

しかし奇異なことに、物語のその後を描いたエンディングを最後まで観ても二人の実子は描かれていませんでした。
つらつらと考えているうちに一つ思い当たったのは、妊娠騒動のシーンです。
「最近食が進まない」とすずが言った時に二人はハッと顔を見合わせたことからも、夜の生活はちゃんと営まれていたようです。


【夫婦生活の描写が希薄】

すずが子供を産めない身体なのか、周作が種無しなのかは分かりませんがあの二人には子供が出来ないようです。
こういった悩みを持つ人への配慮によるものかも知れませんが、そのあたりのことははっきり描かれていません。
妊娠したと思ってごはん茶碗二人分よそってもらえたが医者に行ってみたら結局一人分に、という笑いに転嫁されてうやむやにされていました。

「産めよ殖やせよ国のため」
この時代においてはお嫁さんが跡継ぎを産めないとなればお家の大事であり、離縁されても仕方がないくらいのことです。
でも周作も北條家の人たちもそんなことをするはずはありません。
だから、あの戦災孤児を逡巡することもなく受け入れたのでしょう。

すず(1)
アニメ版のすずは原作よりも幼いイメージで描かれている印象です。
そのせいでしょうか。
周作とすずの夫婦生活を連想する表現はかなりうやむやにされている感があります
(決して、そのものずばりを描けといってるわけではありません)


【水原の訪問】

その数か月後、すずの幼馴染の水原哲が北條家を訪ねて来ます。
水原はすずの初恋の相手ではなかったかと想像します。
子供の頃、海辺で水原に会った時に顔を赤らめていたのと、その時水原がくれたのと同じ椿の花を婚礼の時に頭に挿していたことがその理由です。
水原も、口には出せないながらもすずのことを想っていたふしがあります。

周作は、目の前で妻のすずとその元カレがじゃれあうのが面白くない様子です。
その気持ちは痛いほどよく分かります。
しかしこの後、周作のとった行動に対しては理解に苦しみました。

水原を母屋ではなく納屋に泊まらせた周作は、何故かすずが水原と一つ屋根の下で一夜を過ごすように仕向けるのです。
これではまるで、すずが水原に抱かれても仕方がないと言わんばかりです。
結局は水原が迫ってきても、すずはその手をはねのけて貞節を守りますが「本当はこうなりたいと思っていた。うちはあの人が許せん。」と泣き崩れます。

ここで私は非常に下衆な解釈をしてしまいました。

男として不能だった周作は妻を彼女の初恋の相手に抱かせて、出来た子供は北條家の子として育てるという悲壮な決意。
ラストで戦災孤児を抵抗なく引き取ったのはそのためもあるのだろう。

ああ、お恥ずかしい。
私の心が汚れきっている証拠ですね。
でも映画の中で示された情報だけでは、こういう変な方向に脳内保管してしまう奴がいてもおかしくはないと思います。

後に周作が本音を語っていて、何も知らないまま一方的に呉へ嫁に来させられたすずを内心不憫に思っていた周作は水原との時間をセッティングしたかったとのことです。
いい奴ですね、周作さんは。
でもそれなら、すずは周作の何を許せなかったのでしょうか?。
周作が自分をそんな風に憐れんでいたことに気付いていたということでしょうか?。
それとも何か別の「許せない」理由や出来事があったのでしょうか?。

【リン】

すずとリン
不注意でダメにしてしまった砂糖を買うために闇市に行った帰り、すずは遊郭に迷い込んでしまいます。

この遊郭も扱い方がファンタジーな感じで、道を訪ねたお姉さんたちも身体を売って生活している娼婦にはとても見えません。
周囲にお花がふわふわ浮かんでいるといったすずの心象風景に変換されて描かれています。
やはり性的なイメージは極力オブラートに包む演出方針になっているのですね。

帰り道が分からず途方にくれるすずは、道端に描いた落書きをきっかけに一人の少女と出会います。
このリンという娼婦は、原作では単行本の表紙にも描かれていることから本当はかなり重要な役回りなのだろうと想像します。
後に呉市が攻撃を受けたときもすずはリンを気遣っていましたし、あの口紅も彼女に関係しているのかも知れません。

しかしこの映画におけるリンの扱いは、遊郭の女性たちの代表という位置づけにとどまっていました。
序盤で幼い頃のすずが親戚宅で座敷童に遭遇するシーンがあるのですが、かつてのリンがその座敷童だったと映画の最後の最後で分かる作りになっています。
尺が足りないせいなのか、娼婦ということで扱いが難しかったせいなのかは分かりませんが、たったあれだけの出番で終わるのは非常にもったいないキャラクターだと思いました。

片淵監督様。
今回のアニメのクォリティそのままで、リンとすずの物語を補完するスピン・オフ作品を作ってくれませんかね?。



原作漫画を読んでしまうことにはまだためらいがあります。
この映画を味わい尽くすのに、原作という名の解説本には頼りたくないという想いからです。
しかし、もう原作を読まなくてはいけないところまで来てしまったかも知れません。

明日は、心象風景も多いこのアニメにおけるダブルミーニングについての考察です
最後までお付き合いいただきありがとうございました。



【12/14追記】

友人から聞いた話です。
映画『この世界の片隅に』は、当初は2時間30分位の作品になるはずだったそうです。
絵コンテも出来上がっていたのですが、製作資金の関係で30分を泣く泣くカットしたとのことでした。

それが多分、遊郭の少女・リンにまつわる部分だったのでしょうね。

片淵監督はもちろん、プロデュ―サーも「完全版」を作りたがっているとのことですから期待したいですね。
そのためなら、私もクラウド・ファンディングに喜んで参加しますよ!。
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Tag:この世界の片隅に

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